祈りの力、祈りの時代

われわれは大いなる神の計画の中に組み込まれていること、一人ひとりが何らかの存在価値を持ち、小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないということを、忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に、誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみと悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。
(『シルバーバーチ今日のことば』/近藤千雄 訳編)

参照 ベルリン・天使の詩  Der Himmel über Berlin/Wings of Desire

祈りとは何か

祈りとは何でしょう。祈りとは不思議な行いです。いつどこで祈りが生まれたのかはわかりませんが、先史時代、人間の唇から発せられた神性との間にある祈りという交わりは、素朴な言葉の中に鮮烈なまでの気高さを宿しています。

私たちはどのようなときに祈るのでしょうか。多くが、大きな問題を抱え、逆境の中で解決する見通しがつかないとき、悲しみが訪れてもう駄目なのではないかと思うとき、私たちは祈ります。他にも大切なものを失ったときや、思いもよらないアクシデントのとき、叶えたい大望があるときなど、自分を超えた力に頼りたい気持ちが湧いてきたときに祈ります。

真実の祈り、誠心誠意の祈りは、魂の波長を最高度に高めたいという願いです。「祈る」の語源に、神仏の「息」に「乗ること」、「意図」を宇宙の霊性にまっすぐに「乗せる」ことというものがあるように、物質的な束縛から脱して、周囲に満ちる霊、神仏、高級エネルギーと一体化し、自らをゆだねることをいいます。祈りとは魂の行為のことなのです。

祈りの言葉は宇宙の霊性にまっすぐ通じる力を秘め、祈りの言葉という道を通って、人間の意識は宇宙の神性の中に入っていくことができます。シュタイナーは、祈りの言葉は神界に響く言葉を地上の言葉に翻訳したものであるといいました。いわば祈りとは地上の言語に置き換えられた宇宙の言語であり、意識が神的宇宙を体験することによって魂が生気を取り戻し、力を増し、より多くのインスピレーションと霊的エネルギーを摂取するための手段であるとも言えます。

変わることのない無限の領域へ

ブッダが「生きることは苦である」と言ったことは有名な話です。苦しみとは何かというと、自分自身または他人が受けた打撃や邪悪なことが原因で、精神や魂が苦痛を覚えたときの状態のことをいいます。ブッダは精神的生活の豊かさを生きるという目覚めた人生を歩み、くつろぎと落ち着きの中で今という瞬間を微笑みとともに生きました。自由と歓びと、深い理解と愛に満ち、豊かさに溢れた人生でした。

ブッダが求めていたもの、それは変わることのない、壊すこともできない、そして、無限の意識でした。祈りやヒーリングは人生から厄介ごとを消すことではありません。社会における成功や定義された幸せのあり方を手に入れるためのものでもありません。無限の意識につながり、平安や慈悲、安らぎを生き、今この瞬間をあるがままで満たされることです。そしてそれは特別な状態なのではなく、私たちにとって自然な状態なのです。

豊かで愛に満ちた人生を送る力は誰にでもそなわっています。宇宙の摂理に通じ、その摂理には創造主の絶対的な公正が宿っていることを真に理解したとき、私たちは苦しみから解放されます。今、自分にとって望まない苦しみをもたらす環境にあったとしても、その時点における自身の進化と成長に必要なものがもたらされているとわかるからです。進化した魂は、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛はもう覚えません。

この理解は禅僧ティク・ナット・ハンが教えるマインドフルネスと同じものです。近年、マインドフルネスは流行し、様々なシーンで活かされるようになりました。ただ、その背景には結果として仕事の業績があがるとか、何かいいことがあるといった期待を伴ったもののように感じます。つまり、ある目的を達成するためのマインドフルネスというわけです。ビジネスとして普及させるために科学的知見も持ち出して、その効果をバックアップしています。

マインドフルネスでいられることで問題がなくなっていくという、この世を生きる処世術、私を改善し強化するためのスキルとして流行したのですが、これは本来のマインドフルネスとは異なっています。真のマインドフルネスは「今ここで、自分の内側と外側で起こっていることにジャッジをせず、ありのままの姿に注意を向けて、それに気づいていること」をいいます。

マインドフルネスがなければ、何をしていてもいつも何かに飢えている人生です。幸せに、生きがいに、富に、霊的にさえ人間は飢えて生きています。ブッダが今というこの瞬間を生き、歓びと安らぎの中にあって貧しさとは無縁でいられたのは、本当のマインドフルネスを生きていたからです。

祈りは魂に生命をもたらす水

私自身の話になりますが、自身のヒーリングや瞑想を深めていくにつれて、歌うように踊るように生きたい、困難も病気も含め生きることのすべてを祝福したいと思うようになりました。体調や仕事が安定しているときは行ってきた実践の成果だと思い、調子にすらのることがありました。ところが、いかに精神性を高めても問題の起こらない人生というのはありません。人生が何のトラブルもなくすべてがシンクロニシティでつながり、幸福が連なるように舞い込んでくるというスピリチュアルな謳い文句に疑問を抱きながらも、私は少しでも楽になりたいとずっと思っていたのです。

植物療法、心理占星術、心理療法、瞑想、呼吸法、タッチヒーリング、マインドフルネス……たくさんのヒーリングを学び、実践してきました。それらはどれもが奥深く、これからも私の生活を豊かにし、気づきをもたらしてくれる素晴らしいものたちです。しかしながら、のちに精神宇宙探索でこの地上で満たされることはないということを知るまで、どのようなヒーリングをしてもどこかに癒されえない私がいました。そういう自分を、贅沢で我が儘で鈍いのだと責めるようにもなりました。

最終的にたどり着いたのが「祈りの道」です。私は自分が楽になりたかった、仕事が無理なくできて、何があっても心が安らいでいて、不安なくこの地球での生活を送れることを願っていた、けれど、真の祈りとは、祈りの方法は何であれ、神の光の中に身を浸し、融合することでした。誠実なる魂の祈りは、自分の持っていないものを手に入れるために願うものではありませんでした。自らの現実を、もたらされたすべてを、よりよくしようと「改善」や「修整」を行うものではなく、何が起ころうと魂の秘められて可能性を引き出して磨きをかけるための機会なのだと理解することで、私は本当に安らぎ、自分を許すことができたのです。

アッシジの聖フランシスによる祈りの言葉を紹介します。

祈りとはゆだねることです。神の腕の中へと戻っていくこと、「最愛の人」に抱かれ溶けて一体になることです。たくさんの祈りの方法はあっても、重要なのは融合し一体になることです。自分が持っていないものを手にできるよう願う祈りは程度の低いものです。永遠の輝きに魂を開き、神の光の泉のなかに身を浸すこと、それが最高の祈りです。その無言の祈りを神は無視できません。なぜならそれは、すべての生命が生ずる神なる波動と魂とを融合するからです。他に言葉や観念を用いた祈りもあるけれど、それが無言の祈りより劣っているわけではありません。人の祈りのパワーは、その意図の翼に乗って生ずるのです。他の何ものでもありません。もし神への祈りという歌の価値を自分で判断するのなら、そこに目を向けなくてはなりません。もしその意図が愛であるならば、祈りは、人の真の我が家の玉座へと続く道となるのです。

祈りは、私たちの発する言葉のなかに含まれているわけではありません。その言葉を生み出す心の一途さのなかに含まれているのです。その一途な愛がなければ、祈りの声がどんなに美しく響こうが、それは空しく死んでいます。使徒パウロが、もし愛がなければ我らは経を唱える騒音にすぎないと言ったとき、その意味していたものがこのエネルギーのことなのです。人が心から祈るとき、祈りは愛の発するその形容しがたいものに包まれ、天使の翼に乗って神の祭壇へと運ばれます。愛がなければ、私たちの祈りは鉛の錘(おもり)となり、天使には重くて運べません。その祈りは、天上の疾風を一度も感じることなく、地上に留まったまま忘れ去られるのです。

(『世界を変えた奇跡の祈り』/ジェームス・トワイマン 著 廣常仁慧 訳)

聖霊の声、神仏の声を聴く

祈りは宇宙の摂理に自らをゆだねることです。人間にとって不可避の事実である「思い通りにならないこと」を何とか自分の望むようなものへ変えるために手を尽くすのではなく(この努力を仏教では「四苦八苦」といいます)、ましてやプラスの結果を期待して善行をつむのでもなく、信頼しゆだねることです。今が幸せなら、その幸せが長く続くといいと人は願います。この「もっと」続いて欲しいという心の奥底には、私が安心するには充分足りていない、減ってしまうことが不安である、という表れなのです。

アンドレ・ジッドは「神様は毎日二十四時間、私たちの手の届くところにおられる」と言いました。特別なヒーリングを受けたときということではなく、今この瞬間、神あるいは宇宙の大いなる摂理に触れることができるかが問題なのです。神のエネルギーが聖霊であるならば、マインドフルネスはブッダです。祈りは「神の声」が優しく囁くのを聴くことを可能にします。マインドフルネスとは聖霊と同じもの、祈りと同じものです。

祈りとは内なる故郷に還ることであり、マインドフルネスは内なるブッダに帰依することです。心を静かにして祈るとき、私たちは安らぎます。宇宙と自然の息に自らの息を乗せ、人がとりうる姿勢の中で最も美しいとされる合唱をし、心を一つにすることで、信じられない奇跡も起こります。

安らぐことは大切です。リラックスしましょう、とはよく言われる言葉ですが、リラックスとはのんびり寝転がって楽な姿勢で過ごすこととは違います。身体の活動を休め、静かさの中で内なる自我を取り戻し、その霊力が本来の力と威厳を発揮し、潜在力が目を覚ます機会のことをリラックスといいます。瞑想と呼吸法の大切さはここにあります。

取り越し苦労は精神を蝕み、霊的な存在から送られてくる援助の通路を塞いでしまいます。恐れや不安、憎しみや貪欲で硬化してしまった、あるいは愛し愛されることを忘れてしまった心をゆるめ、「神の声」を聴くスペースを与えてあげることです。「神の声」は森羅万象の声、世界は自らを明かす言葉を常に発し続けています。この言葉を聴くことができれば宇宙の秘密は自ずと明らかになり、神的世界からもたらされた祈りの言葉は、私たちの魂を清め、精神を高く、高く、飛翔させる力を目覚めさせます。

私たちは祈りにより安らぎ、自分が一体何者であったのかを思い出すことができるでしょう。この地上に生まれた役割と、魂に刻まれたテーマと、魂が今何を必要としているのかを、いかなる困難や逆境も乗り越えていく力を、思い出させてくれるでしょう。

揺らぐことのない心の解放

今、困難と苦しみの最中にあってもがいている人、悲しみに心重くしている人、病気で希望を失っている人……世界には痛みと恐れと暴力がまだたくさんあります。このような人たちに癒しがもたらされることを願っています。

祈ることで、成功し豊かになり、病気が治ると言い切れるものではありません。祈りは意識をより高い波長に適合させますから、結果としてそのようなことが起こることもありますが、真の祈りによるゆだねる在り方を生きるようになった暁には、目に見える結果にはこだわらなくなるでしょう。

祈りは報いを求めることではない、自分の願いを叶えるために神仏を動かすような手段ではない、それでいて祈りはどんなにつらいときでも、どんなにうんざりするときでも、自分はひとりではないと気づかせ、孤独を癒し、力を失い沈んだ心に生気を取り戻させます。嫌な事や避けたい事にも抵抗せず受け入れる受容力と寛容を育んでくれます。

陰鬱さ、落胆、失望……このような重たい感情を生きる時期が人生にはあります。このようなオーラを浄化し、霊的存在からの援助を受けることで、低い波動は高い波動にい合わせて変容し、低い周波数のブロックは高い周波数に触れて本質的な変化をします。存在するものはすべて「意識」というエネルギーでできていますから、意識がどのような周波数で調整されているかによって、具現化されるものも変わってくるのです。

明るさとユーモアを取り戻し、かけがえのない人生の今日一日を大切に生きることができますように。曇りばかりの日でも、太陽の光は変わらず天から降り注いでいます。太陽は永遠の輝きの象徴です。光の中の叡智が輝くように生きましょう。それは人々の笑顔に、誠実な仕事に、日々のたたずまいに現れます。美しい青空はいつでもハートの庭に広がっているのです。

孤独な魂の心の拠り所、シルバーバーチの言葉

シルバーバーチは、60年の長きにわたり英国人モーリス・バーバネルの肉体を借りて人生の奥義を語ってきたスピリットです。数あるチャネリングによる霊的なメッセージの中でも「ダイヤモンドの輝き」と称される含蓄に富んだ言葉の数々は、私たちを勇気づけ、愛と寛容さを芽生えさせ、悠久の流れに身を任せる信頼を与えてくれます。真のスピリチュアルな成長を望む人、生きることが苦しくて仕方がない人に、少しでも力になる言葉が見つかりましたら幸いに思います。

言葉は『シルバーバーチ今日のことば』より引用しました。他に『シルバーバーチの霊訓』などが出版されています。道に迷う人たちの孤独を癒し、心の拠り所となりますように……

愛とは、魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時に、おのずから湧き出てくる魂の欲求です。最高の愛には、ひとかけらの利己性もありません。すなわち、その欲求を満たそうとする活動の何ひとつ〈自分のために〉という要素がありません。それが最高の人間的な愛です。

霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をするほかはありません。その霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものをいだいているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

自分が決して宇宙で一人ぼっちではないこと、いつもまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでくれていることを自覚してください。そして、霊性を開発するにつれて、宇宙最大の霊、すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知ってください。

元気を出してください。くよくよしてはいけません。取り越し苦労はやめてください。心配しても何にもなりません。心配の念は霊界から届けられる援助の通路を塞ぎます。自信を持つのです。道はきっと開けるという確信を持つのです。いつの日か、それが苦い体験だったおかげで精神的にも霊的にも成長したのだから悔いはない、と言える日が来ることでしょう。

世間で言う、〈成功者〉になるかならないかは、どうでもよいことです。いわゆる「この世」的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。これさえできれば、世間がどう見ようと、自分は自分としての最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そしていよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ち受ける生活への備えが十分にできている自信をもって、平然と死を迎えることができます。

たった一つの魂を高揚してあげることができたら、喪の悲しみに沈む一つの魂に慰めを与えることができたら、意気地のない一つの魂に生きる勇気を与えてあげることができたら、人生に疲れきった一つの魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけあなたが生まれてきた意味があります。

暗闇にいる人に光を見出させ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を癒し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、たとえそれが、たった一人の人間、たった一匹の動物であっても、あなたの地上生活には十分価値があったことになります。

地上に生を受けた人間にとって、死は避けられません。いつかは地上に別れを告げなければならない時が来ます。それは、もはや地上生活がそれ以上その霊に与えるものが無くなり、次の冒険へと旅立つ用意ができたということを意味します。

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