もう一度新しくはじめるために

魂の深淵を探求する旅へ

自分が心底望んでいるものをちゃんとわかっている人って、どれくらいいるんだろうと思います。

本当に望んでいるものは、状況や年齢でも変わるものかもしれない。それとも深い深い欲求(占星術で言うところの月が示す欲求)は変わらないのでしょうか?

それとも、それは手に入らないもので、その満たされない想いを抱きながら人は何かを求めて生きていく、というとそうなのかもしれない。今はまだ私にはわからないけれど、ギリシャ語の“ユートピア”は、“ない場所”という意味だそうです。

このHPを作成途中の2017年のお正月に、久しぶりに実家に帰りました。

1年半ぶりくらいかもしれません。
大人になればあまり帰省しなくなるのは特に珍しくもありませんが、障害を抱えた家族3人から、その辛さから逃げる意味もあって、なかなか帰らないというのは、たまに自分が随分と薄情だと感じます。

帰省した正月の二日目、私は映画でも観に行こうと思いました。
映画情報を調べ、シド&ナンシーの『Sad Vacation』にしようと決めたあと、毎週楽しみにしているS先生の書く週刊星占いを読んでいました。
私は乙女座ですが、天体は天秤に多く、そしてAscは水瓶なので、この三つはすべて読むことにしています。


それによると、2017年1月2日~1月8日の乙女座の運勢は『自分聖地化計画』とあります。

「今週の乙女座は自分そのものをパワースポット(聖地)化していくような星回り。2017年はこれまでどちらかというと受け取る側だったあなたが、本格的に“人にパワーを与えていく立場へ”移っていくことがテーマとなる」

・・・!
そ、そうなんだ、と読み進めると、自分が何者で何を専門とし、どこまで自分がカバーすべきなのか、またそこで自分が関わっていくのはどんな相手なのか、つまり自分の本文を弁えていくための自己プロデュース力が問われてくる時・・・・・・

すごいなぁと思いました。
自分に問い直すような言葉がたくさん並んでいたのです。

他に水瓶や天秤を見ても、たくさんの想いや感情が心の中でぶつかり合ったり混ざり合って別物になったりして、いつも揺れ幅の大きい私を、すっと“今ここ”に引き戻すような占いでした。

深く心に入り込むこと

そして、映画はシド&ナンシーではなく『ニーゼと光のアトリエ』に。
渋谷のユーロスペースに観に行きました。

余談ですが、渋谷のユーロにお正月に映画を観に行ってかれこれ3年目です。決めてるわけではないのに、初詣みたいになっています(笑)

ニーダと光のアトリエ

星占いで観に行くことを決めた『ニーゼと光のアトリエ』

ロボトミー手術や電気ショック、インシュリン治療が精神疾患の治療として脚光を浴びていた1940年代に、まだ確立されていなかったユングの理論を実践し、絵画のワークショップや動物セラピーを取り入れたブラジルの医師ニーゼ・ダ・シルヴェイラのお話です。

映画の中で、患者に電気ショックを浴びせるシーンがあり、ニーゼの目には暴力的な治療として描かれていましたが、特効薬もなく八方ふさがりだった臨床現場に、これらの治療は風穴を開けた最先端の技術だったそうです。

それでも、見ていてとても辛い気持ちになりました。
私もたくさんの薬を服用して病院に救急で運ばれたときは、両方の手足と胴を拘束され自分では食事もトイレもできない状態でずっと過ごしていました。泣いてもわめいても誰も来てくれないし、うるさいと口に眠剤を放り込まれます。病院側の都合もあるとは思いますが、辛くて悲しい経験でした。

ニーゼはこれらの最新治療を拒み、自由な精神と慈愛を持って患者と向き合う医師として感動的に描き出されています。
パンフレットにはニーゼの言葉がいくつか載っていました。

「複雑な精神医学の本より、マシャ・ド・アシスやドフトエフスキーの本を読むこと。“魂の深淵”を真に探求するものだから」
「私の最も大きな関心は、できる限り深く精神病患者の心に入りこむことでした。それははじめから変わっていません」

ニーゼと光のアトリエ

「身体と同じように、精神にも自然治癒力がある」

ユングの言葉です。

私たちは、ひとりの人間のなかになんてたくさんのものを持っているのだろう。
周りからしたら大したことないようなもので、あっという間に心はバランスを崩してしまう脆さもあるし、何度くじけても、また立ち上がっていく強さもあります。

映画の最後にニーゼ本人のインタビュー映像が流れました。

「私は彼らに社会的に意味のある暮らしをしてほしかった。詩人のアルトーは言っているのよ、人は一千通りの生き方があるってね」

優しく、タフで、ユーモラスな女性だと思いました。

命をわけようとしてくれるだろうか

それにしても、ロボトミー手術を受けることになりそうになったフェルナンドという患者をニーゼは救い、午後の庭先に母のように彼を抱いているシーンはとても美しかった。
私は皆川博子さんの小説が大好きで、たまに好きなシーンをめくっては読んでいますが、その中で『アルモニカ・ディアボリカ』の1シーンを思い出しました。

アンディが大部屋に入ってきたときの状態は、ディーフェンベイカーさんと似ていた。もっとひどかった。自力では歩けず、看護人たちが腕を掴み、床を引きずってきて、放り出した。瞼は開いていたけれど、眼は水の中の石みたいで、唇の端から泡のまじった涎が流れていた。
ディーフェンベイカーさんが看護人を突き飛ばさんばかりに走り寄り、膝をついて、アンディ、アンディ、と呼びながら抱きしめた。それで、僕は新入りの名前を知った。アンディ、どうして君が・・・・・・アンディ。僕が死にかけたら、ディーフェンベイカーさんはこんなふうに僕を強く抱いて、名前を呼んでくれるだろうか。強く抱けば、肌から肌に命が伝わってよみがえらせることができる。ディーフェンベイカーさんは、そう信じているように、僕には見えた。ディーフェンベイカーさんの腕の中で、アンディの手足に、次第に意思が通ってきた。僕は、今、思う。僕が死にかけたら、あるいは死んだら、エド、君は僕を、ディーフェンベイカーさんがアンディにしたように、強く、強く、強く抱きしめて、命をわけようとしてくれるだろうか。

皆川博子『アルモニカ・ディアボリカ』

「ひたすら効率や合理性を追求し、生きた自然、生きた身体、生きた人間とつながる術を見失った現代人がどこかに忘れてしまった感覚を、人と共に取り戻していくこと」
「弱さやはかなさといった一般的には欠如・弱点とされるもので繋いでいくことで、一つの全体としてまとめあげ、別の生き物に作りかえていこうとしているのだ」

この日読んで心に響いた占いの言葉です。

傷ついても傷ついても、私たちは傷が癒えたらまた立ち上がり、歩き始めます。
傷みの記憶は抱いたまま、実際はまだ傷は負っていても、鈍い痛みをときに感じながら「傷は癒えた」と言える心境になります。

悲しむこと、嫉妬したり憎んだり、自分をみじめに思ったり、寂しさと不安で揺れ動いたり・・・・・・それらも精一杯、生き生きと真剣にやりながら、そうして人生はリハビリの連続です。

ニーゼと光のアトリエ