抱き合ってそれから・・・・・・ひとりにならなくちゃいけない~祈りが起こるとき~

マーマレードとハートのパン

 

 

私は祈りと言うときには
神に向かって開いていることを意味している。

あなたがなにか言わなくてはならないとか、
なにかたずねなくてはならないとかいうことではなく、
ただ開いていること、
ただ用意を整えてそこにいるということだ。

深い期待、だが、どんな欲望もないーー
これこそ、あなたに必要なものだ。

切迫した期待ーーまるでなにかがいまにも起こりそうな。
あなたは未知のものがありうるという可能性にわくわくしているが、
どんな欲望もない。

これが起こるべきだとか、
これは起こるべきではないとか言わない。
ひとたび求めたら、祈りはそこなわれる。

あなたは求めていないとき、
ただ沈黙して開いているとき、
どこにでも行く用意があり、
死ぬ用意すらあり、
ただ受容的で、受け身で、歓迎する気持ちでいるとき、
そのとき祈りが起こる。

Osho

 

 

私が占星術を学んでいるときに出会った人の中に、スピリチュアルな人を指して「スピ系」「意識高い系」と揶揄し、嫌っているような人たちが何人かいました。彼らがスピ系の人を嫌うのは、そのスピリチュアルな活動で富も成功も手に入れよう、宇宙につながり自分の願い・・・・・・それもかなり壮大な願いを叶えてもらおうとするような姿勢に、「欲深い」という印象を持っているようでした。引き寄せの法則とかは、もう欲深いの代名詞みたいな感じで嫌そうな顔をしていましたね。

もちろん引き寄せの法則も、深く理解し、物質的な利益を願って行うものではないこともよく解っていて実行していらっしゃる方もいるのだと思います。宇宙の真理を探求しているとかもあるかもしれません。引き寄せというより顕現の法則と言っても良さそうですね。そういう人は自分にとってつらい事が起こっても動じたりはしないのではないでしょうか。

 

 

私たちの多くは起こった出来事に対し、「良い」「悪い」、「好き」「嫌い」・・・・・・そのような区別をつけますが、広い目で見れば、本当はネガティブもポジティブもありません。

ボールを上に放ったら、当たり前だけど下に落ちてきます。むしろ空中でボールが止まったままだったら、おかしいと思うでしょう。

なのに、人は上に上がるのは良いけど落ちるのは嫌なんです。

 

 

このように書くブログの記事なども、私がわりとキレイ(?)で優しい系の内容の記事を書いたときはよく反応をくださるのですが、人間の闇とかネガティブとされているものとか、エロティシズムや快楽といったことなどを題材にしたときは大抵反応がありません(笑)

私は露悪的に目立つためにセクシャルな話題を題材にするということはないので、優しい内容のものでも人間の動物的な本能を扱ったものでも、私の本質から出たものに変わりはないのです。

癒し系の世界ではあまり表立って話されることはないのかもしれませんが、人間が中毒にすら陥りやすいセックス、ドラッグ、飲酒、喫煙、そういったことをセラピーやヒーリング以外の面・・・・・・つまり、DVによる傷を癒す、という風なこと以外の面からも光を当ててクリアに話していくことを戸惑わないでやっていけたらいいのに、と私は思っています。

 

だって、人は過ちを犯すものです。

それがとても人間的なんです。

自ら腐敗を早めるかのように耽溺することもある生き物です。

どんなに社会という秩序や規則の網の目で抑え込んでいても、その結び目からポロリと転げ落ちてしまうのも人間です。

愚かしいと思う人もいるかもしれませんが、それで人間合格なんです。

 

自分が何者かを理解する・・・・・・とは私も言いますが、前提として「自分の心が世界で一番遠い」、つまりわかろうと思ったってわかることのできない自分がいつまでたっても奥底にいるし、その自分はつねに変わり続ける。そして、おそらく自分をわかる!という人は立派かもしれませんが、魅力には欠けるかもしれません。

 

 

悟りを開いたらすべての苦しみがなくなるか?

・・・・・・周囲に振り回されなくなったとしても、世界の苦しみから自分だけ一抜けて、楽になったというのは何やらおかしな話です。スピリチュアルに目覚めてハッピーになって成功も手にしたかもしれないけれど、今もブラジルでは生まれてたった4歳で銃を与えられてお金や薬を得るために人殺しに加担するようなどうしようもない現実があるのに。そして毎日世界平和を祈り続けたシスターに爆弾が落ちてきて亡くなるように、世の中には不条理というものがあります。

 

悟りを開いても(といっても私たちはすでに悟った存在ではありますが)、スピリチュアルに目覚めても、それを社会の中で根付かせて、苦しみから逃げないように。ブッダやキリストが光明を得てからは常に穏やかな微笑みとともにあった、というような感じもするけれど・・・・・・そうではなくて、彼らはもっと笑い、もっと泣いた、どんどん人間らしくなっていった・・・・・・と以前読んだ本に書いてあって、私はなんとなくそうなんだろうなぁと思っている。

 

 

一般にホームドラマと呼ばれるものがありますが、ホームドラマでドラマは起こりません。ドラマが起こったらストーリーは決裂してしまうのです。ドラマとはもっと、決定的な断層を生じさせるもので、毎週決まった曜日の決まった時間に「楽しみにしてるドラマがはじまる♪」と安心してテレビをつけられるものではなくなってしまう。サザエさんが長寿番組なのは、そこでドラマが起こらないゆえに安心して見ていられるからでしょう。

 

 

ホームドラマとは違って、私たちのリアルな人生はドラマです。何も起こらないわけがなく、そうそう安心もしていられないかもしれません。

 

ドラマでは抱き合って、よかったよかったで終わっても、現実の私たちはいつまでも抱き合ってはいられない・・・

抱き合って、それから・・・・・・ひとりにならなくてはいけない。人はひとりだからね。

 

そんなリアルの中にあって、それでも「これが起こって欲しい」とか「こうなったらヤダ」とかはなく・・・・・・その過程は愛しい者の不幸やどうにもならない不条理など、相当の傷みも受け入れていくことになるが・・・・・・その先に、沈黙と受容の中で、祈りが起こればいい。この世界で、未知のものである自分にワクワクしていられたら、それは幸せなことだと思う。

 

 

 

TOP写真はいただきものの甘夏みかんジャム。

 

近所のお気に入りのパン屋さんでハート型の食パンを買ってトーストしてつけて食べました。手作りのジャムは、市販のものよりも酸っぱさと苦味があって、そこが美味しい。原材料を見ると農薬無使用甘夏と砂糖とレモンしか書いていない。最小限の材料で作っているみたい。

 

苦味がしっかり残った甘夏ジャムは、甘夏を育てた太陽や雨や土や空気の味もしそうで、育てた人やジャムを作って運送した人の仕事も間近に感じられるような気がしました。

 

 

甘夏みかんジャムとハート型のパン

 

甘夏みかんジャム

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