バランスの崩れた人生の麗しさ~藤原新也『六十二本と二十一本のバラ』より~

バランスの崩れた人生の麗しさ

 

 

想いが切実であるほど、いわゆる「バランス」のとれた人生には、あてはまらないことがあるように。

海王星と冥王星が歪んでいても愛であるように・・・・・・

 

私たちが生きているこの世界は、
私たちの理屈では捕えられないし、推し量れない・・・・・・そんなものだと思います。

以前、暗室に通って写真を撮っていたとき、
雨が降るとカメラを持って外に写真を撮りに行きたくなる、
そんなカメラマンたちがたくさんいました。私もそうでした。

雨の日は、いつも見慣れている垣根の植物たちも、
路肩に止められたバイクも、郵便ポストも、
濡れて、いつもと違った顔を見せます。

写真好きはけっこう、雨が好きなのです。
この地球は「潤んだ」星なんだなと感じるのです。

そして読書好きも、もしかしたら雨の日好きさんが多いかもしれませんね。
雨の音を聞きながらする読書って、妙に幸福感が湧いてきませんか?

 

雨雲の向こうで天秤座の満月です。

今日は、少し星から離れて、閑休話題。

天秤座は美と調和、バランスの星座と言われます。

さて、バランスとはどういうことでしょうか?

バランスのとれた生活、バランスのとれた人付き合い、
バランスのとれた人物、バランスのとれた人生・・・・・・

そのような言葉をオススメの生き方として薦められると、
私は少し違和感を感じます。

お金も、人との接し方も、人生そのものも、
バランスがとれていた方が健康で人にも仕事にも恵まれ、
破綻なく安心ではあると思うのですが、

ではバランスのとれた人生が美しいかといったら、
そうも言いきれないのではないでしょうか?

 

今日は藤原新也さんの『六十二本と二十一本のバラ』という
短いお話を紹介したいと思います。

 

主人公の「わたし」が友人の三田村という画家を思い出しているお話です。

三田村という画家は、遅咲きながらそれなりに売れる画家になったのですが、
齢六十近くにしてスランプに陥りました。

三田村は、最後の旅として自分が絵を学んだスペインに行き、
初心に戻ることを望みます。

彼は自分の青春期に戻るために、奥さんを連れずに一人で旅立ちました。

スペインで三田村は、モデルをお願いしていたミラという女性と、
ほんの少しのやりとりと、それからの心のわずかな傾きで、
恋心を通わせる仲になります。

ミラは二十一歳の若い女性でした。

この二人が心の距離を縮めていくところが、
非常に繊細に描かれています。

「あぁ、このときこれをしあければ何もなく終わったかもしれない」

そんなふうなことで、

だがそのような単純な誤解によって生じたわずかな身体の接触であっても、
それは互いを男女として意識させるに十分な行いだったに違いない。

そう「わたし」は推測します。

 

「わたし」はスペインへ三田村に会いに行き、
ふたりの間に起こったことを少し聞くのですが、

「わたし」が三カ月ほど旅を続け日本に帰ったころ、三田村の訃報が待っていました。

三田村はミラと別れ、日本に戻り、そうして心臓発作で亡くなっていたのです。
三田村は奥さんに、彼女が意味不明と思われる言葉を残していました。

「この歳になって叶ってはならない希望というものもあることを知った。
自分の幸福から身を引くことが他者の幸福になるということを知った。
それは悲しいことだが人として受け入れなければならないことだ。
神様もそう願っているはずだ」

 

三田村は自分が老いて、しかも病気持ちで、
ミラとカップルになってところで自分が先に死ぬのはわかっているし、
そんな分別くさいことを考えて画家としてやっていけるかとも考えるのですが、
ミラの幸福のために彼は画家としての自分は捨ててもいいと「わたし」に伝えていました。

 

「わたし」は三田村の深い苦悩を、一人の人間として美しいと思いました。
そしてまた一人の家庭人として残酷だと思いました。

「わたし」は三田村の墓参りに六十二と二十一本のバラを用意し、
墓の両脇に手向けます。三田村とミラが出会った時の年齢のバラ・・・・・・

アンバランスに手向けられた左右のバラに怪訝そうな顔をした奥さんに、
「わたし」は言います。

「かならずしもバランスのとれたシンメトリーがきれいとは限らないんですよ。
時に平凡な人生よりバランスの崩れた人生のほうがずっと麗しいように」

 

 

その人が、その人を全うしたとき、
それはいわゆる世間一般で言われる「バランスのいい人」ではなくなることがあります。

私たちの魂は、社会の正しさのためにあるわけではないのですから、
それは当然のことなのです。

それでも、「おためごかしのバランス」を守るために、
私たちは人に嫌われないように、その人たちとつながっているために、
自分の意見を抑えたり、自分を殺して生きていたりもします。

私も昔はお綺麗ぶった意見を言う人に対して、
「おまえそんなもんかよ!」と挑発してケンカ売ったりしていました。
若かったですね(笑)

そんな、そんな表面的なものではなくて、
いいとか悪いとかではなくて、その人そのもの、純粋なその人の核みたいなのに、
私は触れたかったのです。

 

それはとても命が輝いて見えるからです。

 

病気でも貧乏でも、
周囲にバカにされうような人生でも、そんなものは関係ありません。

私たが生きている世界は、人間というものは、
ちっぽけな私たちの理屈で捉えられるようなものでは・・・・・・ないのです。

 

『キャバレー』という映画のラストで、
ショー・ガールであるライザ・ミネリ扮する女性が歌うCabaret

♪前にこんな女友達がいたのよ
エルシーって呼ばれてる娘
4つの汚い部屋を一緒に使っていた娘

彼女が死んだ日には
隣人は笑っていたわ
“ああ ついにきたのか
避妊ピルと酒の飲みすぎだ”

でもわたしが見たのは
女王のように横たわっていた娘
彼女はもっとも幸せな死体ね
私が今まで見た中で

酒とクスリのやりすぎで死んだって
皆に笑われる人生

そんな人生、あなたは送りたい?

嫌ですよね。

私だってそうなりたいとは思っていません。

だけど人はそうならざるを得ないときもあり、
そして死んでも、みんなが言うように本人は不幸だなんて
これっぽっちも思っていなく、

むしろ女王のように幸せそうとまで思う人がいて、

そしてその歌が、時代や国を超えて
誰かを少し救ったりするのです。

 

負け犬の傷の舐め合いと、いわゆる「勝ち組」の人は
言うかもしれません。

それでも、私はヒーリングやスピリチュアリティーを学んでも
この世界のおもしろさ、わけわからなさ、豊かさにいつも惹きつけられていて、

安心で安全で無難なバランスを
どうしてもつまらないと感じてしまうのです。

 

人生はキャバレーですよ!

このわけわからなさに、飛び込んでいきましょう!

このおもしろさを、薄っぺらい「バランス」なんかで汚さないでね・・・・・・・

 

ライザ・ミネリのCabaret

動画を拡大して聴いてみてくださいね。

 

 

 

映画 キャバレー

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2017-04-11 | Posted in 本・音楽・映画No Comments » 

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