みじめな苦悩か?至福か?/土星の中で木星が輝く、そのとき悟りが起こる~「たとえ世界の終わりが明日でも、種をまくことができるか?」

ブレードランナーのロイ4年の寿命が尽きようとしているとき
ロイ・バッディはさっきまで殺そうとしていた
デッガードの命を救った
最後に、命そのものを彼は
愛したのかもしれない

 

 

本当に生きづらい時代だと思う。

 

いや、何があろうと自分しだいだよ、ほら笑う門には副来るって?ハッピーでポジティブなところに幸福はやってくるのさ。

 

・・・・・・本当に?

 

 

もしあなたは混乱している、あるいは混乱の多い人生だったとするならば、それはあなたに本物の知性があるからだ。知性があるからこそためらい、思い悩み、迷う。知性的でない人はけっして迷わないし、ためらわない。

 

 

自分の今までを振り返っても、人の悩みを聞いていても、生きづらい時代だと思う。あなたは生きづらくなかった?

 

私は、自分に正直でいようとすればするほど居場所がなくなっていった。自分を外に向かって表現すれば受け入れてもらえなかったし、周囲に自分を合わせれば窒息しそうになった。

 

 

どうしてこんなふうに生まれついたんだろう?

もっと穏やかで幸せな家族に生まれなかったんだろう?

なんでこんな病気になったんだろう?

どうしてすぐに落ち込んで傷ついて、悩んでばかりの自分なんだろう?

 

 

苦しいから、救われたくてこの宇宙のしくみなんか学んだりして、物事が顕現する真理なんて知って理解することで心の平安を得ようとして、そしてこうして起こるできごとや思い込みはすべて自分の幻想だった、って知るときが来ても・・・・・・別に病気は治らないし、仮に自分のことはなんとかなったとしても、自分に関わる人々、家族、親戚、子どもの結婚相手、友人・知人たちに不条理は起こるしね・・・・・・

 

 

自分に起こることはすべて自分が経験すると決めて生まれてきたと、そうか、もう自分という人間はどうしようもなくこうでしかありえないと、そう悟る日が来るまで本当の意味でこの世界に生まれることはない。気づきが起こらなければ救われないんだ。

 

 

 

幸せは浅いが、悲しみは深い。

 

深い悲しみを知らない人は、貧しい人なのだ・・・・・・と、OSHOは言う。

 

OSHOの『新瞑想法入門』から、少し長いけれど講話を引用します。

 


 

生涯を幸せに過ごした、あるスーフィの神秘家がいた。彼が不幸なのを見た者はいなかった。彼はつねに笑っていた。笑いそのものだった。彼の全存在が祝祭の香り、喜びの香りだった。晩年、彼が死んでゆくときに弟子が尋ねた。彼は、死の床でも、死を楽しみ、呵呵大笑していた。

 

「あなたは不思議な方です。いまにも死のうとしているのに、なぜ笑っていたっしゃるのですか?(略)」

 

すると、老人は言った。

 

「それは簡単だ。私も師匠に聞いたことがある。ひとりの若者として師のもとにいたとき、たった十七歳なのに、私はすでに苦しんでいた。師は七十の老人なのに、ただわけもなく笑いながら樹の下に坐っていた。他には誰もおらず、何かが起きたわけでもなく、誰も冗談を言ったわけでもない。それなのに、師匠は腹を抱えて大笑いしていた。私は尋ねた、

 

『どうしたのです、気でも狂ったのですか?』

 

すると、彼は言った。

 

『ある日、私もまた同じように悲しかった。だが、そのとき、これは自分の選択であり、自分の生だということを、突然さとったのだ

 

その日以来、毎朝起きて最初に決めることは・・・・・・目を開く前に自分にこう言うのだ。

 

『アブドゥラー・・・これは私の名前だ・・・何が望みか。苦悩か至福か。今日はどちらを選ぶのか』

 

そして、私はいつも至福を選んでいるというわけだ」

 


 

 

私が・・・あなたも、選ぶのはみじめな苦悩か、それとも至福か?

 

苦悩の中にすら至福を感じるのなら、そのときは、苦悩を喜ぶという選択をしているのだから、私たちはそのとき苦悩ではなく喜びを選んでいる、ということになる。

 

 

 

どんなに木星が吉星だったとしても、どんなに大きかったとしてもね・・・・・・土星の中でしか働かないんだよ。

 

今、どんなに苦しくて、ときに地獄だとしても、目の前の目に見えている現実こそが正解。

 

 

寺山修司は「人類が、最後に罹るのは、希望という病気である」と言った。ティク・ナット・ハン氏も“今ここ”の現実を見ないで未来に期待や希望を抱くことばかりになってはいけないと言っている・・・・・・

 

然り、と思うのと同時に現代の私たちは「希望という病気にすら罹らない」のかもしれない。幾多の時代を通り過ぎて、長く生きながらえすぎたの?

 

 

だけど、蠍座というこの世界の愛着というしがらみ、感情的な懊悩だとか喜びだとか、すべて振り払って射手座の世界に飛び立つのに希望もビジョンもなかったら、どうやって飛び立てるだろう?

 

26日には火星は射手座に入るけれど、射手座の寺山修司はこのようにも言うのだ。

 

 

「たとえ世界の終わりが明日だとしても 種をまくことができるか?」
(『愛さないの、愛せないの』より)

 

 

 

あらゆる幻想を切り捨てて、こうでしかありえない自分と目の前の現実をただ受け入れたとき、私という存在の沈黙のうちに誠実な輝きが光りだす。そこで木星は希望を抱き、可能性に賭けることがはじめてできる・・・・・・

 

木星は土星の中で輝く。

 

そのことが本当にわかったときに、悟りは起こる。

 

 

ロイ・バッディ

 

 

アドセンス

<script async src=”//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js”></script>
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({
google_ad_client: “ca-pub-6530303901137473”,
enable_page_level_ads: true
});
</script>

関連記事

Comment





Comment



CAPTCHA